垣内美希さんの歌を聞きに、小倉「ぶらん亭」へ ~ その2

>>垣内美希さんの歌を聞きに、小倉「ぶらん亭」へ ~ その1

垣内さんが歌い始めると、たった1フレーズで空気が変わった気がした。
あたりを払うような声。

一年前にたった一度、ライブで聞いたきりの垣内さんの歌に
自分がどうしてこんなに惹かれて、
どうしてこんなにこだわってるのか、
一年間ずっと考え続けてきた。
・・・と言ってもいい。

その答えが一瞬で出たような気がした、そんな声だった。

歌い出してわずか2,3フレーズ後に、
「あ、違った」って感じでやり直されたのだけど、
そんな中断でも彼女の歌の磁場は全然壊れなくて。

「すごい。すごい声だ」
って静かに興奮してて、
家に帰る途中も、翌日もずっとまた考えてた。

 

声はたぶんギフトだと思う。
天から授かりDNAによって伝えられたもので、
自分では選べない。変えられない。

でも、どんな節回しで歌うか、どんな歌を歌うかは、
やっぱりその人の選択であり、その人の表現で、
節回しや歌の内容ひっくるめて好きだの嫌いだの感じるわけで、

たとえ垣内さんの声でも西野カナを歌われたらきっと私はさらっと聞き流してたと思うけど、
でも垣内さんが西野カナを歌うのは想像できなくて、
やっぱり垣内さんは垣内さんの声にふさわしい歌を歌ってるなと思う。

それは、この日見た魚座の藤井さんも、松岡さんも同じで、
素敵だなと思う歌い手はみんなそうで、
人は自然と、自分の声にふさわしい表現を追求するようにできているのだろうか?

それとも、表現したいことが突き詰められていくと、
本来は変えることができないはずの声さえも、
まるでその人が生み出し編み出したもののように
その人の「表現の一部」として感じられるものなのか?

垣内さんの歌に耳を澄ませる。
私はどうしようもなく、彼女の声に耳を澄ませてしまう。

言葉がよく聞こえる。
ひとつひとつの言葉が大事に歌われている。
といっても過剰な表現はひとつもなく、淡々とつづられているのだけど、とても悲しい。

のがれられない悲しみが、聞いているうちに、
私の心にも少しずつ確実にたまっていって、
最後の歌でものすごく泣けてしまった。

やっぱり、この悲しみが歌われるから私は垣内さんの歌が好きで、
こんな悲しみを歌える人はそうそういなくて、
でもそうやって賛辞してしまっていいのだろうか?
こんな歌を作って歌う、痛みや悲しみを、どうとらえたらいい?

歌っていて悲しくないのかな。
歌うたびに悲しみを何度も追体験するんじゃないのかな。

こんな歌に出会えてよかった・・・と思うことが、少し憚られる。
「垣内さんが、こんな悲しみを経てくれてよかった」と同義になりそうで。

悲しい歌は世の中にゴマンとあるのに、
そういうふうに思うのは初めてだった。

というか、のほほんと生きてミーハーしてる私が
こんな哲学的な命題みたいなのを考えてることにびっくりだ。
でも、垣内さんの歌は、そんなことを考えさせるのだ。

全貌が見えないくらい大きな世界と、
それに比べてなんて取るに足りない、ちっぽけな自分。
不可避で不可逆で圧倒的な力を前にした諦め。孤独。

具体的なことはそんなに歌われないのに、
この大きさは何。
すごく泣けるんだけど、
すごく癒されるのはなぜ。

彼女が「山」が好きで、休みの日に登りに行ってる、って話はすごく納得だった。
山の大きさを本当に知っている人。
足元の草を見てる人の歌。

垣内さん撮影、天拝山の登山口の写真です

 

でもさ・・・山が好きだから、こんな歌を歌えるのかな?
こんな歌を歌う人だから、山が好きなのかな?

そんな、考えてもどうしようもないいろいろを、
帰り道も、次の日も、ずーっと考えてた。

そしてやっぱり、たどりつく問いはこれ。

私はどうしてこんなに彼女の歌が好きなんだろう?

また聞きにいかなきゃ。

まだ、つづく。





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