関ヶ原【正義を信じ愛を貫く純粋過ぎる武将】石田三成が岡田准一にピタリとはまる!

関ヶ原(司馬遼太郎:原作)

【INTRODUCTION】
戦国史上最大の合戦「関ヶ原の戦い」。これまで映画、ドラマでは何度も取り上げられてきた天下分け目の決戦だが、真正面から戦い自体を描いたのは日本映画史上初めての挑戦!
監督には、『日本のいちばん長い日』(15)などで知られる巨匠、原田眞人。25年もの長きにわたり映画化を熱望、岡田准一、役所広司、有村架純といった豪華キャストを迎え、司馬遼太郎原作の大ベストセラーが遂に完全映画化。

「純粋すぎる武将」石田三成には、今や国民的俳優となった岡田准一。ただ正義を信じ、不器用で人間味のある、新たな「三成」が誕生した!
対する徳川家康には、日本映画界を代表する名優、役所広司。自身が初めて挑むという家康役を、度量たっぷりに魅力的に演じる。
そして三成に仕える忍び・初芽には、今、最もオファーが絶えない女優、有村架純。初の本格時代劇で、殺陣などのアクションにも挑戦している。

三成の右腕として勇猛果敢に戦う島左近には平岳大。合戦の命運を握る小早川秀秋に東出昌大。その他、北村有起哉、伊藤歩、音尾琢真、和田正人、滝藤賢一、キムラ緑子、中越典子、壇蜜、松山ケンイチ、西岡德馬など、歴戦のつわものたちが「関ヶ原」に集結。天下分け目の決戦を彩る!

本作は、これまで語られてきた「関ヶ原の戦い」を、新しい解釈と共に描く。
石田三成を「正義を信じ、愛を貫く純粋すぎる武将」として中心に据え、徳川家康を「野望に燃え、天下取りを目論む武将」として対極に置き、関ヶ原の命運を握る小早川秀秋もこれまでのイメージとはまったく違う「義を貫こうとする」武将として打ち出す。

また、初芽や蛇白、北政所など女性たちも戦いの命運を握る重要な役回りとして、物語に深みをもたらしている。史上最大の合戦「関ヶ原」に向かう、武将たち、女たちの“未来に向けた想い”、ここに「関ヶ原」の誰も知らない「真実」が描かれる!

撮影では、京都・東本願寺、姫路城など各地の名だたる国宝級・歴史的建造物でロケを敢行。エキストラ総数3,000人規模、延べ400頭にも及ぶ騎馬や鉄砲隊が入り乱れる合戦シーンは、大迫力の映像となってスクリーンに映し出される。

かつてないスケールで挑む、これが世界に誇る史上最大のスペクタクル・アクション超大作が遂に誕生した!

【STORY】
1595年7月。豊臣秀吉の甥で関白の秀次が謀反の嫌疑をかけられ、切腹を言い渡された。
続いて秀次の妻や側室、侍女など20人が【三条河原で斬首】されることが決定。それを検分しに来た豊臣政権・五奉行の一人、石田三成(岡田准一)は、秀次の側室・駒姫の侍女たちが幼い姫を守って処刑場で戦っている姿を目撃する。
三成は侍女たちを助け、その一人で伊賀忍者の【初芽】(有村架純)と、主従の関係を結ぶ。
一方で、この処刑を苦々しく見ている者がいた。それが武人として名高く、今は浪人の身にある【島左近】(平岳大)である。左近を見かけた三成は彼を追いかけ、自分の知行十九万石の内、半分を差し出すことで家臣にならないかと説得。
秀吉を嫌う左近はこれを断るが、三成は最近の秀吉が利害によって作った秩序を批判しながら、それを正して、かつて、秀吉が持っていた正義の心を継承したいと語る。
「天下悉く利に走るとき、ひとり逆しまに走るのは男として面白い仕事だな…」と応えて、左近は家臣になることを承諾。
この日、三成はその後の人生の伴走者となる初芽と左近と、絆で結ばれたのである。

1598年8月。豊臣秀吉が病没。天下取りの野望を抱く徳川家康(役所広司)は、すぐさま行動を開始。
朝鮮征伐から戻った秀吉子飼いの加藤清正、福島正則など【七人党】の武将を手なずけ、自分の側へ引き入れる事に成功する。三成は初芽を使って、家康の動向を探らせていた。初芽は彼の下で働くうちに、「一人が万民のために尽くし、天下が泰平になればみんなが心豊かに暮らせる」という、【大一大万大吉】の旗印に込められた理想を語る三成に惹かれていく。
だか彼女は家康側の忍者として働く赤耳たちに襲撃され、 負傷して三成の前から姿を消した。

1599年3月。豊臣政権の大老・前田利家が死亡した。

利家によって保たれていた諸将の勢力バランスが崩れ、【七人党】はかねてから敵意を抱いていた三成を、夜襲によって殺害することを計画。これを察した三成は、敵方の頂点に立つ家康の伏見屋敷に単身乗り込んで、襲撃を逃れ、九死に一生を得る。だがこのことがきっかけで三成は奉行職を解かれ、佐和山城に蟄居を命じられる。

1600年6月。国境の城塞を修築し、軍備を整え始めた会津ね上杉に対し、家康が一大討伐軍を組織して東上を開始。
これは上杉家の家老・直江兼続と三成が結託して家康を東へと誘い込み、三成が軍をおこして西から向かい、はさみうちにする作戦だった。三成は盟友・大谷刑部をはじめ諸将を引き込み、毛利輝元を総大将にたてて西軍を組織。
三成挙兵の知らせを聞いた家康は、討伐軍を掌握して東軍として、三成と戦うべく西進し始める。

1600年9月15日。決戦の場を関ヶ原に定めた東軍と西軍は、遂に激突する。
緒戦は西軍が優勢だったが、これを決定的な勝利に導くには西軍の、武将【小早川秀秋】(東出昌大)の参戦が不可欠だった。だかこれまで自分を擁護してくれた家康に対する恩と、義を以てこの戦の正しさを説く三成との間で秀秋の心は揺れる。重い腰を上げない秀秋を再度説得するため、左近の息子・信勝が派遣されるが、彼は無残にも秀秋の家臣たちによって斬り殺されてしまう。その姿を見た秀秋は三成への加勢を決断するが、家臣たちに止められ、小早川軍は西軍への攻撃を始めた。
戦闘開始から、わずか6時間で終わった関ヶ原での天下分け目の戦い。その一部始終を、今では、奴婢の一団と行動を共にしていた初芽が見届けていた。そして三成に自分の人生を懸けた島左近は、合戦場でその魂を、武人らしく散らしていった。
戦いの勝敗が決し、ひとり落ち延びた三成は、旧知の百姓家に囲われるが、やがて、補縛される。三成は斬首される事になり、刑場へと引き出されていく。
その彼に初芽が【大一大万大吉】と声をかける。三成の理想は、彼女を通して後の世へ受け継がれていく。

〜以上、映画のパンフレットより〜

 

まず、、最初に【関ヶ原】天下分け目の壮大なる合戦(歴史を変えたと言える戦)をブログに書くにあたって、、私の理解力、文章力では、ストーリーの説明が難しいと思いましたので、パンフレットを引用させてもらいました…

【映画の感想は…】
観終わって、久々にスケールの大きい映画を見たぁ〜と、満足感はありました。
しかし、本音を言うと【歴史初心者】には難しい映画だと思いました…
やはり、関ヶ原の戦い(前哨戦からすると数年)を2時間半くらいで映画に収めるのは、非常に無理があります。2部作なら、もう少し掘り下げて、前哨戦を描くことができたのかもしれない…と思います。
しかし、やはり、一気に関ヶ原まで駆け抜ける事に意味があるのかもしれない…と思います。
難しいですね…

そして、あたり前ですが、、ストーリーの展開が非常に速いです。それに加え、武将達の台詞も早口なので、聞き取りにくい場面があります。テロップや、字幕スーパーなどの説明も、ほとんどなかったような…

登場人物の台詞からそれぞれの人間関係、起こっていることの意味を読み取るしかないのですが、その台詞がほとんど聞き取れないのです。早口で、他の音と混じって聞き取りが難しい場面がたくさんあります。
多分、歴史初心者はついていけません。
頭の中に人物関係をしっかりと入れた上で、映画を観るのをオススメします。
私も歴史は好きですが、、
予習をして観なかったから、少々、話についていけませんでした(笑)

序盤の三条河原での処刑の場面は、原作にはありません。それは、初芽をどう描くか、監督が頭を悩ましたところで、、虐げられた女性達の思いを集約したキャラクターとしたかったと…

原田眞人監督が関ヶ原の映画化を考えたときは、通説の裏切り者である「小早川秀秋」が主役でした。その間、何度も脚本が書き変えられ、なんと映画化が実現するまで、25年をかけたそうです。
最終的には本作の通り石田三成に変わったそうです。「義を重んじる三成の魅力に、60歳を超えてから気づいた」とのこと。また、彼が関ヶ原を撮りたい…と強く思うようになったのは、原田監督自身が出演したハリウッド映画「ラストサムライ」に出演したのがきっかけだったと言うことです。

【合戦の場面は写実的で迫力があって、素晴らしいです】

しかし、肝心の合戦の全体像が良くわかりません。どの部隊が誰と戦っているか…全く分かりません、、私の認識不足かもしれませんが…
せめて、戦い開始から終了までの間、所処で「陣地図」を入れてほしかったかなと思います。大河ドラマで、良くありがちな…
しかし、テロップ、陣地図、ナレーション(解説)を入れないと言うのが、、監督のポリシーなのかもしれませんね…

【石田三成】
豊臣秀吉への思いを真っ直ぐに美しく貫いた。
正義か不正義かと判断して兵をあげる。
百戦錬磨の名称徳川家康に真っ向勝負を挑んだ不屈の闘志と、ストイックに自らの信念を貫き続けてた武将。
その姿が岡田准一と言う俳優の姿にピタリとはまります。

【島左近】
左近は戦の経験が豊富にあり、戦術に長けていて、政治に関してもわかりすぎている人物です。眼光の鋭さ、立ち振舞いの威圧感が伝わる圧巻の風格。三成の正義を信じ愛を貫く姿にほれて、最後の仕事として、三成に人生をかけてみたくなったのでしょう。
関ヶ原では、左近は61歳でした。

【小早川秀秋】
「関ヶ原の戦い」では、合戦の明暗を決定づけた重要人物とは小早川秀秋だというのが私の記憶なんですが、、通説だと、なかなか東軍に、寝返らないので家康が頭にきて、小早川が陣取った松尾山に銃を撃った。驚いて西軍の大谷刑部軍攻め始めた、、と。しかし、これは全くの嘘なんです。確かに、小早川は戦いが始まって3時間、動いてないんです。しかも彼の所には家康の命を受けて黒田長政から派遣された監視役がいたんです。それでも動かなかったわけですから、迷いがあったと思います。最初は東軍として戦うつもりだったが、、三成の真っ直ぐで、一途な人柄に惹かれて、西軍で戦おう!と決断したんだと思います。しかし、その時小早川は19歳と言う若さだったため、家臣たちに食い止められてしまたんだと…
その為、優柔不断な裏切り者、頭の弱いお坊ちゃまとしていつもは描かれますが、今作では少し描かれ方が変わっていました。三成の正義を信じ、愛を貫く姿に心を動かされた、誠実な武将として描かれています。
小早川は豊臣秀吉の養子で、北政所に育てられました。その為、北政所の命には、背けない、、と言う弱点もあります。

また、朝鮮出兵の時の彼の失態を石田三成が豊臣秀吉に詳細に報告し、彼は秀吉に怒られたあげく、領地も没収されています。
しかもそのあと、彼と秀吉の仲を取り持ってくれたのは他ならぬ徳川家康でした。やはり、確執はあったのです。

【徳川家康】
情報戦略、権力闘争に長けた古狸のような人物。
野望に燃え、天下取りを目論む武将。
関ヶ原の戦いの前に全国の大名に120通以上【密書】を送ったとされています。正に、策士です!
女好きな狸おやじ。
側室が沢山いたのは有名な話です。
風呂場で【今日の伽は誰にするかのうフフフ…】
と今日の夜のお相手の話をしている家康は、、、
お腹が狸のようにでていて、自分で、フンドシがしめれません…
役所広司が熱演しています。

【初芽】
ヒロイン役の初芽は、原作の武家の「間者」という設定が変更されて、伊賀「忍び」という設定で登場します。始めは三成と主従関係のみでしたが、次第に、三成の正義感が強くて、純粋な人柄に惹かれて、恋心を抱くようになります。
初音が、大谷刑部の所に使いに行くときに、、三成が、馬で見送りにきて、、
初芽が【人とも女とも思ってくださいますな、、】といつもの台詞を言います。そしたら、三成は【必ず、戻ってまいれ!】と初音の目を見て言うシーンがあります。三成は、初音を側室にはできないが、愛していると、告白するシーンが私は一番好きです!
個人的に岡田准一が好きなだけですが(笑)

乱世が終わったら、二人で旅に出よう、、とも話しています。なんとまぁ、ロマンチックなお話でしょう。

戦いが始まる前段階の情報戦、忍者同士が情報交換する「忍び市」の存在もでてきます。さらに、三成・家康ともにお気に入りの女忍者を側に置き、側女というより、側室のような扱いで登場します。

関ヶ原の前哨戦である【朝鮮出兵】での、加藤清正や福島正則らとの確執も描ききれてません。
七人衆も黒田・清正・福島以外はでてきません。

 

【東軍(家康)が関ヶ原の戦いで勝った理由】

今回の映画で忍者を大きくクローズアップさせたことは、今も昔も戦争における戦略・戦術を支えるのは【情報力】だったというこを物語っています。
結果だけをみると、三成の人望の無さや無謀さを指摘する人が多いのですが、天下分け目の戦いにしては、実に呆気ない幕切れに終わります。しかし、決戦を迎えるまで、いずれが勝利してもおかしくなかった。
そうした状況で、東軍に勝利を決定づけたのは、家康が積極的に仕掛けたた陰謀工作の結果です!
関ヶ原の戦では戦場の決戦よりも、その直前までの情報戦、外交戦の方が重要だったのです。
いかに多くの人間を見方につけるかが、決め手であった。家康は、三成よりも沢山の人間を見方につけ、勝利したということです!

【今回の映画では「淀殿」と秀吉の正室「北政所」の対立が克明に描かれています。】
関ヶ原の合戦で家康率いる東軍に数多くの豊臣系の武将が、参加しているのは、北政所がそうするように指示したと言うことです。
大河ドラマで、【北政所】と【淀殿】は良く描かれていますが、こんなに露骨に二人の対立を見たのは初めてです。

 

【映画では描き切れなかった関ヶ原の戦いの背景】

「関ヶ原の戦い」の戦闘は1日で決着が着きましたがそこに至るまでは長く、
複雑な出来事が色々と積み重なっておきています。

すでに「豊臣家」によって天下統一されていた日本でしたが、その後に朝鮮半島に攻め込んだ「朝鮮出兵」があり、戦乱の時代はまだ継続していました。
秀吉の死後に豊臣家で日本を治めることになったのは、「豊臣五大老」と「豊臣五奉行」と呼ばれる人たちです。

この五大老と五奉行の中で最も主要な人物となったのが「徳川家康」と「石田三成」です。

しかしこの「石田三成」はみんなから嫌われていました。
彼はもともと豊臣秀吉の一番の側近で、秀吉に様々な報告を行ったり、その命令を各地に伝達する役目をしていました。
そのため彼によって、失敗や罪状を秀吉に報告され、処罰を受けた人が多くいたのです。
武将の失敗や失態などを、情けや釈明なく、ありのままに報告する、、それでいて自分は豊臣家のトップにいる彼は、多くの武将から嫌われていました。
さらに「官僚(政治家)」なので、本人が合戦で戦って負傷することもありません。
そういう所も実際に戦場で戦っている「武断派」の武将からは嫌われる要因でした。

こういう理由で、豊臣秀吉が生きている頃から豊臣家のでは 石田三成 を中心とする「官僚派」と、合戦で戦っている「武断派」の間で内部対立がおきていたのです。
この豊臣家の内部対立が、「関ヶ原の戦い」の主要原因となっています。

秀吉の死後、徳川家康が勝手に婚姻の斡旋などを行っていました。それを受けた武将はありがたいことであり、おまけに非難している石田三成は嫌われていたため、武将たちはそれぞれ「家康派」と「三成派」に分かれていく事になります。

しかし、豊臣家の中には、仲裁役とて「前田利家」がいたため、すぐにトラブルになることはなかったのです。
彼は豊臣五大老の NO.2 としての権力と、多くの武将や大名から慕われている…人徳がありました。

しかし、時は流れ・・・ 仲裁を行っていた「前田利家」も死去します。

ついに「石田三成 暗殺未遂事件」が起きます!

石田三成と対立していた豊臣家の武断派の武将7名が結託し、石田三成を亡き者にしようと襲撃を計画したのです!

その武将は「福島正則」「加藤清正」「黒田長政」「藤堂高虎」「細川忠興」「加藤嘉明」「浅野幸長」という名の、戦国の名将ばかり。

しかしそれを石田三成は事前に察知して、襲撃前に姿をくらまします。
このとき、石田三成 は 徳川家康 の屋敷に逃げ込んだと
言われています。
ライバルである徳川家康がこの事件の仲裁をしたのです。

この事件が起こった事で石田三成は謹慎処分となり、一時的に蟄居を命じられます。

そして、 1600 年のお正月…
「徳川家康」の所に各地の大名家が年賀の挨拶に来ました。
ところが、この挨拶を「上杉家」だけは断り、さらにそれを伝える使者の家臣を謀反の疑いで処罰しようとします!

そのためその家臣は上杉家を離脱し、家康に「上杉景勝に謀反の気配があります」 と報告します。
元々、この前の年から 上杉家 が無断で軍備の増強を進め、城の防備も固めており、合戦の準備を行っているという噂は流れていました。
そのため家康は、これらの噂について釈明を求める手紙を出します。
これに対する上杉家の重臣「直江兼続」の返信は、次のようなものでした…

【くだらない噂を信じて謀反を疑うなど子供のようなもので、釈明の必要もない。 軍備を進めているのは東北の大名に対する備えをしているだけだ。 そちらは京都で茶器でも集めているんだろうが、こちらは田舎者ゆえ武具を整えるのが武士だと思っている。 だいたい自分が勝手に婚姻の斡旋などをしていたくせに、人に違約違反を言うのはおかしい。 前田家をお仕置きしたらしいが、大層なご威光だ。 あらぬ噂を真に受けて汚名を着せようというのなら、兵を率いて出迎えてやるから、いつでもかかってこい】

これが、徳川家に対し、堂々と挑戦状を叩き付けた、有名な「直江状」です!

この「直江状」の経緯については後世、様々な説があります。
「家康側はこうした返信が来るのを承知しており、上杉側はその罠にはまったのだ」という説もあれば、
「上杉家と石田三成がすでに連携していて、徳川家康を誘い出すために挑戦状を出したのだ」という説もあります。
いずれにせよ、これが「関ヶ原の戦い」の引き金になったことは確かです。

そして徳川家康は「上杉家の謀反の疑いはもはや確実だ、討伐のために出陣する!」と、大軍を率いて大阪城を出発します。

徳川家康が家臣と共に軍勢を率いて出陣したことにより、大阪城には徳川派が一時的にいなくなりました。

すかさず石田三成は友人の「大谷吉継」を招いて今後のことを相談します。

そして翌月 1600 年7月、石田三成 はついに「徳川討伐」の挙兵!

そして豊臣五大老である中国地方の大名「毛利輝元」を総大将として軍勢を準備し、西側の大名家が徳川軍に参加できないように関所を封鎖、さらに大阪城にいる東軍の武将の家族を人質に取って、必勝体制を整えます。

そして翌日、さっそく徳川軍の部隊がいる京都の城「伏見城」を総攻撃します!
「伏見城」には徳川家の重臣「鳥居元忠」がいましたが、守備兵は 1800人位でした。
一方、攻撃側には1万以上の兵力があり、しかも諸国の軍勢が参加して戦力がどんどん増加、伏見城側は多くの軍勢に手が出ない状態になっていきます。
結果、伏見城は炎上して鳥居元忠は戦死します。

徳川家康は京都での戦いの報告を受けて「小山」と言う場所で「会議」を開きます。
これが【小山評定】と呼ばれる、有名な会議です。

戦国の名将「真田昌幸(真田幸村の父)」だけは、当初は徳川軍に参加していましたが、小山評定の際に徳川軍から離脱します。
これが後になって、徳川軍のに多きな影響を及ぼす事になります。

徳川家康はしばらく各地の武将や大名に協力要請の手紙を書き続けていましたが、1ヶ月ほど経ってついに出陣。
本隊の軍勢を2つに分け、1つは自分が率いて東海道から西に向かいます。
もう一方の軍勢は、徳川家康の次男で、徳川家の後継者でもあった「徳川秀忠」が率いて、「中仙道」という山間部のルートを通り、西に進軍していきました。

ですがこの「徳川秀忠」の部隊は、結果的に「関ヶ原の戦い」には間に合いませんでした。
途中に、徳川軍から離脱して西軍に付いた 真田昌幸・真田幸村 が守る「上田城」があったからです。

この上田城には 2000人の兵がいましたが、徳川秀忠の軍勢は 3万8千、圧倒的な差です。
これなら秀忠軍は楽勝で城を落とせそうですが・・・ 名将「真田昌幸」の防戦の前に大苦戦していました!

秀忠軍の家臣も意見が分裂して揉めまくり、おまけに「早く進め!」という家康の使者が大雨で遅れてしまいます。
徳川軍の兵力の半分はこの徳川秀忠が率いていましたから、これが戦場に到着しなかったのは、徳川家康としては大誤算となりました。

しかし、徳川軍の他の方面の作戦は順調に進んでいました。

しかも、石田三成が主力と考えていた「豊臣五大老」の大名家「毛利家」「宇喜多家」の軍勢は、動きが鈍く、思ったような軍事行動が出来ていませんでした。
これは毛利家も宇喜多家も、当主を含めて武将の多くが「二代目」であり、戦国時代を生き抜いた経験豊かな武将が少なかったためです。

また、徳川側からの再三の寝返り要請があったことや、石田三成の人気がなかったことも影響し、武将や兵士の「やる気」に問題があったとも言われています。

すでに「情報戦」の面で、西軍は東軍に劣っていたのです。
石田三成は徳川軍の京都・大阪への進軍を止めるべく、「関ヶ原」の近くにあった「大垣城」という城に入ります。
東軍もこの大垣城に進軍していき、いよいよ舞台は決戦の地「関ヶ原」へと移ります…

と、、まぁ、、本当色々な要因があります。(まだ、まだ、描ききれてない出来事があります)
そんな中、、三成と初芽のラブロマンまでも盛り込んで、、三成の誠実で、愛する人に真っ直ぐな人柄を岡田准一は見事に演じています。

映画【関ヶ原】是非、、
ご覧ください!!

 

更に凄いのは岡田准一の乗馬技術です!
彼が乗っていたのは、【軍師官兵衛】でも乗っていた馬で、相性がぴったりです!
岡田君の馬があまりに速すぎて、撮影カメラが車以外付いていけなかったと言うエピソードもあります(笑)

また、手弓も射つシーンでは、両サイドに部下を付け、代わる代わる弓を受け取り、連射しながら、攻め込むシーンがあります。
正に…【SP】で拳銃を射つシーンを思い出しました(笑)
鋭い眼光!三成じゃないだろ〜と突っ込みたくなるほど、カッコいいです!
アクションもカッコいいです!





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